今日は「河童忌」
2007年07月24日 (火) | 編集 |
「河童忌」とは文豪 芥川龍之介が自殺した日。
昭和2年の今日、7月24日未明、龍之介は
多量の睡眠薬摂取により、この世を去りました。

芥川龍之介は明治25年、新原家の長男として出生。
辰年辰月辰日の辰の刻に生まれたことから
「龍之介」と名づけられたそうです。
生後7ヶ月の時に実母が精神を病んで発狂したため、
母の実家の芥川家に引き取られ、後に養子となります。

文学の才能は幼い頃から認められ、東京帝国大学英文科に進学、
この頃から創作を始めます。
かの有名な「羅生門」もこの帝大在学中に執筆しています。
けれど、この当時はあまり注目されなかったようです。

彼が脚光を浴びるのは大正6年頃。
この時期は文壇が華やかな時代で久米正雄、佐藤春男、
菊池寛、谷崎潤一郎、志賀直哉、有島武郎などの反自然文学者が
多数活躍。
そして「芋粥」「鼻」「老年」などの短編をおさめた「羅生門」刊行も
この頃。
その後の龍之介の活躍は言うまでもなく、「地獄変」「蜘蛛の糸」
「点鬼簿」「十円札」などの名作を次々に発表します。
が、大正10年頃から不眠症となり睡眠薬を常用するようになります。
大正13年には中毒となり、自ら「薬を食って生きている」と
揶揄するようになります。
そして昭和2年の7月24日未明、多量の睡眠薬で服毒自殺を遂げます。

終焉、薬を飲んで苦しむ龍之介を妻の文(あや)が発見、
医師の手当ても間に合わずこの世を去ります。
後に龍之介の長男、芥川比呂志氏は随筆の中で
「その日の朝は泣き叫ぶ母と苦しむ父しか見なかった」と記述、
絶命まで苦しんだ龍之介を書いています。
後に遺稿となる「歯車」「或阿呆の一生」「西方の人」「続西方の人」が
発表されます。

と言うことで今日は読みかけの小説を中断、
芥川作品で一番好きな「藪の中」を読んでおります
 入選作の披露 2
2007年04月08日 (日) | 編集 |
昨日、この場でアップいたしました、公募入選作「霧のあと」の後編です

五年前、私は小学生の二人の子供を連れ、嫁ぎ先を飛び出した。半年の別居の後、離婚することになった。原因は嫁いびりであった。
同居していた義父母のデリカシーのなさ故に、プライバシーが全くない生活を強いられた。着替え中、ノックもせずにドアを開けたり、友人が遊びに来ても平気で居間に居座ったりする。加えて、無遠慮な小姑との軋轢。
私は疲れ果てていた。
子供のためと思って耐えてはきたが、家族で経営する会社の、営業不振の原因を私のせいにされたとき、もう駄目だと感じた。
義父は、会社資金を私が使い込んだから赤字になったと、理不尽に私を責めた。
義母は義母で、皿が一枚足りない、コップが一個見当たらないと騒ぎ、私を泥棒扱いした。そして、そんな馬鹿げたことを孫の前でわめくものだから、子供達は精神的に不安定になった。
私自身もストレスから体調を崩し、別居を義父母に申し入れたが、世間体が悪いと言われ反対された。だが、心身ともに限界だった私は、一人でアパートを探し出し、子供達を連れて、逃げるように家を出たのだ。
当然のことながら、義父母の仕打ちに両親は激怒した。無理もない。とついで十三年、私に心安らぐ日がなかったことを、両親が一番よく知っていた。家業が忙しい時は都合よく使われ、給料ももらえない。その一方で、片手間のように日参する小姑には意味もなく給与を与える。
近所の人や同業者から笑われていることにも気づかぬ義父母。
毎年、正月ともなると、年末から泊り込み、一週間も居座る小姑家族。暇さえあれば小姑が入り浸り、それを喜ぶ義父母がいるこの家を、私は何年経っても自分の家だとは思えなかった。
道北の田舎から出てきて働き続け、会社を設立した義父母の苦労はわかるが
だからといって何をしても許されるというものではない。
血のつながりしか信用しようとせず、親離れ子離れできない集団としか思えなかった。
夫と別居したとき、私の父も母も特にこのことで勝手に騒ぐようなことはしなかった。心配してくれているのはわかったが、不必要な口出しはしない。
その辺り、両親は子離れしていた親だった。

親の愛情を強く感じたのは、別居から半年後、両家で話し合いをした時である。
義父母のせいで娘夫婦の仲がおかしくなったと主張する父に、義父は「離婚は夫婦の問題だ」と言って逃げた。母は、義母が私を泥棒呼ばわりしたことを問い質した。「だって、この人は他人だもの」義母は丸く大きい鼻を更に膨らませて言う。横領の疑いをかけたことも、義父母はとぼけた。私が詰問すると「お前は、どうしてそんなデタラメを言ってご両親を心配させるんだ!」と怒鳴る。無茶苦茶であった。
夫は、私の味方をしたら会社を無くすと、株の持ち主である義父に言い含められていたので、終始無言であった。母は呆れてつぶやいた。
「父さん、帰ろう。この家に一般常識は通用しないもの。時間が無駄だわ」
話し合いが決裂し、家に戻る車の中で父は静かに言った。
「あの家に戻ることは考えなくていい」

それから数日後、私達夫婦は正式に離婚した。義父に全ての金銭を押さえられている夫からの援助はなかったが、私は良い職場にも恵まれ、親子三人なんとか暮らせるようになった。
けれど、義父母から受けた心の傷が癒えぬまま、突然に父と別れた子供達を、両親は不憫に思っていたのだろう。休みともなると、子供達をパークゴルフや近郊の温泉に連れ出してくれた。義父母とは全く違う愛情を受け、子供達は本来の素直さを取り戻していった。
その間、二人の息子が相次いで結婚し、末弟のところで三人目の孫が誕生、父には喜ばしいことが続いたが、私のことは、いつも気に病んでいただろう。そんな過去が私に「父が病気になったのは自分のせいだ」と思わせたのである。

一月末、父の手術が行われた。転移がなければ…という父の期待は脆く崩れた。胃でみつかった癌は、既に肝臓と肺、大腸に転移していた。開腹してできたことは、腫瘍のせいで食物が通過しない消化器にチューブをつけ、食事ができるようにしただけであった。

二月下旬、父は自宅療養を許された。それを機に私は両親との同居を決め、親子三人で暮らしていたアパートを引き払った。病を得て気弱になった父だったが、二人の孫に囲まれ、少し元気を取り戻した。
日々、細くなる父の手足を見るのは辛かったが、一緒に住む安心感の方が私には大きかった。
四月半ば、週に一度の検診に出かけた父は、再入院することになった。連絡を受け、病院に駆けつけると父は「貧血だとさ」と笑う。告知を受けていない父は、癌に侵された骨にはもう、血液を造る力がないことを理解してはいない。一週間ほど輸血治療をして退院という医師の話で、とりあえず私は安堵した。

四月二十八日の真夜中、私は母に起こされた。「父さん、容態急変したんだって!」私は弟達に連絡し、子供達を起こすと、車で病院へ向かった。深い霧に行く手が阻まれるようだった。
「父さん、私達が着くまで待ってて!」と願いながら車を走らせた。
病院に着き、看護師の案内で処置室のドアを開けた。そこには、機械で生かされている父が横たわっていた。
母が泣き崩れる。弟達、義妹たちの頬に涙が光る。子供達は肉親の死を初めて目の当たりにし、呆然と立ち尽くしている。
「巡回中の職員が、呼吸停止に気づいて、すぐに処置したのですが…」
医師が説明するが誰も聞いてはいない。
嗚咽が溢れる小さな部屋で、私だけが泣けなかった。

書類手続きが済み、私達は病院を後にした。バックミラーに深々と頭を下げる医師達が映る。午前五時だった。家を出る時、視界を遮っていた深い霧は晴れ、朝の光と重なり、眩しい。今日は晴れるのかと思った。

父の喪に服した一年が終わろうとしている。初七日、初盆を終えても、五十九歳で父が旅立ったことを実感できなかった。
満月の夜。喪中葉書をパソコンで印刷し、宛名書きを終えると、不意に涙が落ちた。父がいないことを、私はその時、唐突に理解した。涙が止まらなくなった。
あの日、狭い処置室で、一人だけ流せなかった涙が、意味を持ったように雫になる。
いつも私を心配していた父。そして、意に反して不安の材料ばかり作り出してしまった私。
窓を開け、遠い空に向かって「父さん、たくさん心配かけて、ごめんね」と言ってみた。涙に濡れた頬に、冷気が突き刺さった。
父はきっと笑ってくれるような気がする。その時その時、一生懸命だった私を、理解してくれるだろうと思いたかった。
「ごめんって?何をバカなこと…」
照れながら軽く笑い飛ばすであろう父の顔が、十二月の夜空に浮かんだ。
               完

原稿用紙16枚分です。
実際に掲載されたものを読んだりすると、出てきますねぇ、
直したい箇所が・・・ε=ε=ε=ε=ヾ(;◎_◎)ノ ヤバヤバ
アップした原稿は忠実に再現してあります。
ご感想いただけると(ご質問でも)嬉しいかも。
 入選作の披露 1
2007年04月07日 (土) | 編集 |
kabamaru改め端野萬造さまよりすすめられまして、
この場で先日入選した小説をアップいたします。
ご感想、ご批判、ご意見などありましたら
遠慮なくどうぞ。

「霧のあと」

ピンと張られた鯨幕の前で私は、初めて着た喪服の胸苦しさに顔を上げた。
黒い縁取の父の写真を見つめながら、この歳で親の葬式を出す戸惑いを感じていた。
37歳の春だった。
見慣れた顔が、控え室と会場に集まっている。町内会の女性が足早に厨房へと消える。黒い服を着た男女が母に頭を下げ、声をかけてゆく。
私には、この光景が夢に思えた。ただ、夢を見ているだけなのだと思った。
いや、本当は、夢だと思いたかっただけかもしれない。

父が体調を崩したのは、昨年の春。出張先の釧路から私に電話を寄越し、具合が悪いので汽車で帰るから、駅まで迎えに来て欲しいと言った。
電話の声は、いつもの様子とさして変わらないように思えたので、風邪でもひいたか、お腹をこわしたのだろうかと、暢気に考えていた。けれど、職人気質の父が出張先の現場を中途にし、家に帰ると言うからには、相当体が辛かったのかもしれない。
ちょうど、その日はクリスマス・イヴで、母を食事に呼んでいた。
「父さんも一緒に来て ご飯食べよう」そう言って電話を切った。

「とにかく、何も腹に入らないんだ」
父は、自分の状態をそんな風に説明した。出張先の宿舎で出された食事も、ここ一週間ほど手をつけられなかったと言う。
翌日、母と一緒に近所の内科医院に行った父は「胃に出来物があります。その性質を調べてもらいましょう」と言われ、総合病院の予約をしてもらった。
ところが、一月六日の検査予約を父は変更してしまった。病院に電話をし、一週間、予約を延ばした。そして五日から母と私の子供二人を連れ、三泊四日の温泉旅行に行くと言い出した。
体調が悪いのに・・・と訝る私に「どうしても行くんだって。子供達の支度しておいて」と母が言う。
「ホントに頑固だねぇ、父さんは」
呆れながら私が言うと母は「ああいうのは偏屈って言うのよ」と笑いながら答えた。

旅行から戻った父は、自分で変更した検査予約日に病院へ行った。検査だけで帰れると思っていた父は、その場で入院が決まり、狐につままれたようだった。
夕方、荷物を持って母と病院へ行くと、同質の患者と談笑している父がいた。病院指定の病衣がなんだか似合わない。
私が「一応、病人らしく見えるよ」と軽口を叩くと、父は苦笑した。
翌日から父は検査漬けだった。仕事帰りに父を見舞う母の、電話報告が毎晩続いた。
「検査があるから食べられなくて点滴ばかりで・・・今日は胃カメラだったみたい」「結果が出揃うまで全然わからないって」「血液検査で全部終了って言われたの」
仕事が忙しく、思うように父の元へ行けない私には、母の電話は貴重な情報源であったが、その反面、自分の目で父の様子を確かめられないもどかしさも味わっていた。

入院から十日後、担当医師による父の病状説明があった。母と私、二人の弟を前に、意志はレントゲン写真を出して話し始めた。
医師は、父の胃の出来物は癌で、今月末に手術予定であること、転移がなければ数年の生存が可能であることなどを、少々まわりくどく説明した。父は、自分のレントゲン写真を食い入るように見ている。
やがて、骨の全身写真に目を留めた。
「骨にある、この黒い点はなんですか?」
父が聞いた。私と弟たちも、つられて写真を見た。腰の部分を中心に不気味な黒い点があり、手足の骨にも広がっている。
「これは骨にできた癌です」
どうやら、父の病気は考えていたものより深刻らしい。説明は続く。手術で癌を取り、抗癌剤を投与して再発を防ぐという。父は姿勢を正し、黙って話を聞いていた。

説明が終わり、私たち家族は父の病室へ戻った。癌の宣告をされたというのに、父は終始明るかった。
「転移してなければいいってことさ。俺は絶対、転移してないと思うんだ」
健康には自信のある人だけに、転移への不安も骨の癌も、楽観視しているように見えた。だが、もしかしたら、余りにも突然すぎて実感がなかっただけかもしれない。
母が、翌日に寄ることを告げ、私達は病室を出た。エレベーターを待っていると、一人の看護師が私達を呼び止める。
「お帰りのところ申し訳ありませんが先生がお呼びです。詰所に来てください」
嫌な予感がした。
父にはいえないことを、これから私達は聞くのだ。いい話であるはずがない。恐る恐る詰所に入る。お国先ほどの医師がいる。消毒薬の臭いがわけもなく鼻をつくようだ。
所在なさげな私たちに彼は椅子を勧めた。
「実は大原さんの病状について、ご本人の前では話せないことがあります。残念ですが胃癌は転移している可能性大です。気休め程度の手術しかできそうにありません。また、骨の癌を取り除くことは不可能です。余命半年と考えていただけますか?」
医師は、先程の説明とはうって変わって、ハキハキと話す。私は、医師が突然なにを言い出すのかと呆気にとられ「どうしてですか」と間抜けな質問をした。
「大原さんの癌は、主病巣が胃ではなく骨なのです。ここからリンパ腺に入り、内臓に転移したと考えられます。症状が最初に出たのが胃であったというだけなのです」
 「・・・と、いうことは?」
「癌細胞は体中に存在しています。骨の癌は痛みを止めることしかできません。本人への告知の判断は、皆さんにお任せします」
「助からないということですか?」
弟が確認する。医師が静かに俯く。それは肯定であった。
先月まで板金職人として元気に働いていた父。昨年、三人目の孫が生まれ、喜んでいた父。来年迎える還暦を楽しみにしていた父。その父があと半年でこの世から消えてしまう。信じたくなかった。
さらに続く医師の説明は残酷であった。父の脊髄に深く根付いた癌は、やがて父を歩行不能にする。骨そのものも脆くなる。寝返りを打ったり咳をしただけで骨折するようになる。
そして激痛を伴い、最終的にはモルヒネなどの強い薬を使うより手段はなく、やがては死に至る。
医師の丁寧な説明で、素人の私でも医学的な理論はわかる。だが、何故それが父なのだろう。どうして父だけが、こんな病魔にとり憑かれてしまったのだろう。何故、どうしてと繰り返すうちに訳のわからない感情がこみ上げ、私は号泣してしまった。
ここが詰所であることも、数人の看護師が仕事中であることも、どうでもよかった。
私があんまり激しく泣いてしまったからか、医師は告知しないことを確認した後「抗癌剤が劇的に効く人もいます。あきらめないでください」と、妙に簡潔な言い方をした。

眠れない日が続いた。本を読んで眠気を誘おうとしても、活字が目をはねのける。仕方なく起き出し、明け方までビデオを見たが、やはり画面を目が追うだけで、内容は頭に入らない。ぼんやりと考え事ばかりしていた。
考えて考えて、行き着く場所は同じだった。
父の病気は、私が原因だと・・・。


続きは近日アップする予定です(・∀・)よろしく♪
 昼休みに・・・。
2006年09月17日 (日) | 編集 |
昼食後、午後の仕事まで本を読みました。
今日は再読「愛の流刑地」渡辺淳一著。
「失楽園」に阿部定事件をチョイス、そのあとは著者の独壇場・・・
という感じの小説です。

私がバイブルのようにいつも手元に置く本は・・・。
「宣告」加賀乙彦著。
この小説を読んで人生観が変わりました。
死刑囚、無期囚、犯罪、更生。
色んなことを考えさせられました。

「宣告」をよんでから我が家の本棚には、やたらとその関連の書物が並んでいます。
死刑関係、犯罪関係、死体関係、実録もの、獄中記・・・。
人間の究極を追及するような本が好きです。