当たっちゃいました♪
2007年04月30日 (月) | 編集 |
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市内のスーパーが創業60周年で、
イベントをやってまして。
4月いっぱいね(^∀^)ノ
近所にもこのスーパーのピ○ザ店があるので、
よく行くんです。
イベントは、レシートに赤い招き猫の絵が出たら
お米3キロか、道場六三郎さんデザインの
お椀3組が当たるという…
これが、なかなか当たらないんですよ、
ほぼ毎日、ここで買い物してるんですけど〜。
時々、仕事が忙しい時なんか、何日か分買いだめしたり。
こんな時は5000〜8000円くらい買っちゃう。
お米とかね、買うと、どうしても。
でも、さっぱり当たらないんです。
って言うか、スーパーのイベントは
必ずと言っていい程当たらない私。
三角クジさえポケットティッシュのオンパレード。
で、昨日も当てる気ゼロの買い物(400円弱)
そうしたら…!
レシートにまっ赤な招き猫が…!
やった〜ぃ!当たったぁ〜!
初めて「カランカラン」と鐘が鳴った!
道場さんデザインの綺麗なお椀3個、
GET!"(ノ><)ノ
ホントはお米ほしかったんだぁ〜
そろそろ買わなきゃとか、思ってたんだぁ〜。
レジにね、「米は引き替え数量に達しましたので
終了いたしました」
ガーン(°□°;)
でも、綺麗なお椀でしょ?
 おとうしゃんの荷物が…
2007年04月28日 (土) | 編集 |
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段ボールにはいって届きまして…
そしたら、早速もこみちが箱に入るわ、箱の下に潜るわで( ̄○ ̄;)
ダンナが、箱から出したクルマのオモチャをしっかり品定め。
あんまり可愛いのでパチリです。
ダンナは、単身赴任中にたまった有給休暇を取りまくり
毎日もこみちと戦っております。
(遊ばれてるかも…もこみちに…)(/--)/
 な○みちゃんが…
2007年04月25日 (水) | 編集 |
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QUEENの話題、苦しそうなので(?)
今夜のサラダをアップしましょ♪
レタスときゅうりを敷き、その上に
細く切ったお豆腐。(断然、木綿)
ミニトマトを半分にカットして無造作にばらまき、
更に鰹節を散らします。
「トッピング」は、それぞれにおまかせ。
ごまだれ風味のドレッシングやぽん酢、
マヨネーズ、醤油、わりと何でも合います
私はぽん酢とごまだれがお気に入りでございます♪〜θ(^0^ )
 「オペラ座の夜」
2007年04月24日 (火) | 編集 |
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「A NIGHT AT THE OPERA」です。
このアルバムは発売から32年経ってますが
いまだにファンの間では高い評価を受け、
現在もイギリスでは売れ続けています。
話題になった、あの名曲、
「BOHEMIAN RHAPSODY」が収録されています。
これは現在の音楽シーンに大きな影響を与えた1曲。
演奏時間が5分55秒という…。
この当時は2分前後の楽曲が主流でした。
なぜに短いか?
ラジオで流してもらうためでした。
ところが、QUEENがその常識を打ち破りました。
現代ではとてもできない冒険です。
曲の構成も面白く、アカペラのバラードから始まり、
いきなりオペラに。
その後また唐突にハードロックとなり、
再び美しいばらーど、エンディング。
QUEENに興味がない方でも
十分楽しめる1枚です。♪〜θ(^0^ )
 すっかり忘れてました(^_^;)
2007年04月22日 (日) | 編集 |
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3月31日の「並べてみましたが…」の
続きです( ̄○ ̄;)
タイムリーネタをはさみすぎて、
すっかり忘れてました…

CDはQUEENの「戦慄の女王」です
何故かQUEENのデビュー曲は「WE ARE THE CHAMPION」と
思い込んでいる方が私の回りには多いのですが、
「KEEP YOURSELF ALIVE」が
彼等のデビュー曲としてクレジットされています(^∀^)ノ
このアルバムもデビューアルバム。
粗削りですがパワーがすごい!
1973年の発売です♪〜θ(^0^ )
 カウンターも?
2007年04月16日 (月) | 編集 |
キリ番ですね、900番♪
誰かな〜?
 キリ番ですε=ε=┏( ・_・)┛
2007年04月15日 (日) | 編集 |
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我が家のVIVIOがラッキー7!
雪道なのでこのクルマで…と、
午後からサークルの勉強会に行ったのですが、
帰り道 ついに77777!!
信号待ちの時に慌てて撮影したので
写真が斜めになってしまいましたが、
ご愛敬…ということで…
 春遠からじ(;∇;)/~~
2007年04月14日 (土) | 編集 |
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まったく、いつになったら桜は咲くのか、
せっかく乾いた道路もグチャグチャです。
私の愛車、NISSAN180が…
雪にまみれて…
 端野萬造さまのブログを見ていたら…
2007年04月13日 (金) | 編集 |
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いやぁ〜、パスタ食べたくなって(-.-;)
おいしそうなパスタがいっぱいアップされてまして。
ご家族でパスタ料理のお店に行かれたみたいで
ボロネーゼやカルボナーラはもちろん、
エビクリームやらトマトソースやら…
で、今夜のメニューはパスタに決定!
私と娘はミートソースです
トマトやデミグラス系が苦手な息子は
野菜とベーコンで、味は塩コショー。
夜食には 余ったスパに昨日のカレーの残りをかけて食べてました。

今夜はダンナは研修旅行で室蘭へ。
何食べたんでしょ〜かね?
 入選作の披露 2
2007年04月08日 (日) | 編集 |
昨日、この場でアップいたしました、公募入選作「霧のあと」の後編です

五年前、私は小学生の二人の子供を連れ、嫁ぎ先を飛び出した。半年の別居の後、離婚することになった。原因は嫁いびりであった。
同居していた義父母のデリカシーのなさ故に、プライバシーが全くない生活を強いられた。着替え中、ノックもせずにドアを開けたり、友人が遊びに来ても平気で居間に居座ったりする。加えて、無遠慮な小姑との軋轢。
私は疲れ果てていた。
子供のためと思って耐えてはきたが、家族で経営する会社の、営業不振の原因を私のせいにされたとき、もう駄目だと感じた。
義父は、会社資金を私が使い込んだから赤字になったと、理不尽に私を責めた。
義母は義母で、皿が一枚足りない、コップが一個見当たらないと騒ぎ、私を泥棒扱いした。そして、そんな馬鹿げたことを孫の前でわめくものだから、子供達は精神的に不安定になった。
私自身もストレスから体調を崩し、別居を義父母に申し入れたが、世間体が悪いと言われ反対された。だが、心身ともに限界だった私は、一人でアパートを探し出し、子供達を連れて、逃げるように家を出たのだ。
当然のことながら、義父母の仕打ちに両親は激怒した。無理もない。とついで十三年、私に心安らぐ日がなかったことを、両親が一番よく知っていた。家業が忙しい時は都合よく使われ、給料ももらえない。その一方で、片手間のように日参する小姑には意味もなく給与を与える。
近所の人や同業者から笑われていることにも気づかぬ義父母。
毎年、正月ともなると、年末から泊り込み、一週間も居座る小姑家族。暇さえあれば小姑が入り浸り、それを喜ぶ義父母がいるこの家を、私は何年経っても自分の家だとは思えなかった。
道北の田舎から出てきて働き続け、会社を設立した義父母の苦労はわかるが
だからといって何をしても許されるというものではない。
血のつながりしか信用しようとせず、親離れ子離れできない集団としか思えなかった。
夫と別居したとき、私の父も母も特にこのことで勝手に騒ぐようなことはしなかった。心配してくれているのはわかったが、不必要な口出しはしない。
その辺り、両親は子離れしていた親だった。

親の愛情を強く感じたのは、別居から半年後、両家で話し合いをした時である。
義父母のせいで娘夫婦の仲がおかしくなったと主張する父に、義父は「離婚は夫婦の問題だ」と言って逃げた。母は、義母が私を泥棒呼ばわりしたことを問い質した。「だって、この人は他人だもの」義母は丸く大きい鼻を更に膨らませて言う。横領の疑いをかけたことも、義父母はとぼけた。私が詰問すると「お前は、どうしてそんなデタラメを言ってご両親を心配させるんだ!」と怒鳴る。無茶苦茶であった。
夫は、私の味方をしたら会社を無くすと、株の持ち主である義父に言い含められていたので、終始無言であった。母は呆れてつぶやいた。
「父さん、帰ろう。この家に一般常識は通用しないもの。時間が無駄だわ」
話し合いが決裂し、家に戻る車の中で父は静かに言った。
「あの家に戻ることは考えなくていい」

それから数日後、私達夫婦は正式に離婚した。義父に全ての金銭を押さえられている夫からの援助はなかったが、私は良い職場にも恵まれ、親子三人なんとか暮らせるようになった。
けれど、義父母から受けた心の傷が癒えぬまま、突然に父と別れた子供達を、両親は不憫に思っていたのだろう。休みともなると、子供達をパークゴルフや近郊の温泉に連れ出してくれた。義父母とは全く違う愛情を受け、子供達は本来の素直さを取り戻していった。
その間、二人の息子が相次いで結婚し、末弟のところで三人目の孫が誕生、父には喜ばしいことが続いたが、私のことは、いつも気に病んでいただろう。そんな過去が私に「父が病気になったのは自分のせいだ」と思わせたのである。

一月末、父の手術が行われた。転移がなければ…という父の期待は脆く崩れた。胃でみつかった癌は、既に肝臓と肺、大腸に転移していた。開腹してできたことは、腫瘍のせいで食物が通過しない消化器にチューブをつけ、食事ができるようにしただけであった。

二月下旬、父は自宅療養を許された。それを機に私は両親との同居を決め、親子三人で暮らしていたアパートを引き払った。病を得て気弱になった父だったが、二人の孫に囲まれ、少し元気を取り戻した。
日々、細くなる父の手足を見るのは辛かったが、一緒に住む安心感の方が私には大きかった。
四月半ば、週に一度の検診に出かけた父は、再入院することになった。連絡を受け、病院に駆けつけると父は「貧血だとさ」と笑う。告知を受けていない父は、癌に侵された骨にはもう、血液を造る力がないことを理解してはいない。一週間ほど輸血治療をして退院という医師の話で、とりあえず私は安堵した。

四月二十八日の真夜中、私は母に起こされた。「父さん、容態急変したんだって!」私は弟達に連絡し、子供達を起こすと、車で病院へ向かった。深い霧に行く手が阻まれるようだった。
「父さん、私達が着くまで待ってて!」と願いながら車を走らせた。
病院に着き、看護師の案内で処置室のドアを開けた。そこには、機械で生かされている父が横たわっていた。
母が泣き崩れる。弟達、義妹たちの頬に涙が光る。子供達は肉親の死を初めて目の当たりにし、呆然と立ち尽くしている。
「巡回中の職員が、呼吸停止に気づいて、すぐに処置したのですが…」
医師が説明するが誰も聞いてはいない。
嗚咽が溢れる小さな部屋で、私だけが泣けなかった。

書類手続きが済み、私達は病院を後にした。バックミラーに深々と頭を下げる医師達が映る。午前五時だった。家を出る時、視界を遮っていた深い霧は晴れ、朝の光と重なり、眩しい。今日は晴れるのかと思った。

父の喪に服した一年が終わろうとしている。初七日、初盆を終えても、五十九歳で父が旅立ったことを実感できなかった。
満月の夜。喪中葉書をパソコンで印刷し、宛名書きを終えると、不意に涙が落ちた。父がいないことを、私はその時、唐突に理解した。涙が止まらなくなった。
あの日、狭い処置室で、一人だけ流せなかった涙が、意味を持ったように雫になる。
いつも私を心配していた父。そして、意に反して不安の材料ばかり作り出してしまった私。
窓を開け、遠い空に向かって「父さん、たくさん心配かけて、ごめんね」と言ってみた。涙に濡れた頬に、冷気が突き刺さった。
父はきっと笑ってくれるような気がする。その時その時、一生懸命だった私を、理解してくれるだろうと思いたかった。
「ごめんって?何をバカなこと…」
照れながら軽く笑い飛ばすであろう父の顔が、十二月の夜空に浮かんだ。
               完

原稿用紙16枚分です。
実際に掲載されたものを読んだりすると、出てきますねぇ、
直したい箇所が・・・ε=ε=ε=ε=ヾ(;◎_◎)ノ ヤバヤバ
アップした原稿は忠実に再現してあります。
ご感想いただけると(ご質問でも)嬉しいかも。
 入選作の披露 1
2007年04月07日 (土) | 編集 |
kabamaru改め端野萬造さまよりすすめられまして、
この場で先日入選した小説をアップいたします。
ご感想、ご批判、ご意見などありましたら
遠慮なくどうぞ。

「霧のあと」

ピンと張られた鯨幕の前で私は、初めて着た喪服の胸苦しさに顔を上げた。
黒い縁取の父の写真を見つめながら、この歳で親の葬式を出す戸惑いを感じていた。
37歳の春だった。
見慣れた顔が、控え室と会場に集まっている。町内会の女性が足早に厨房へと消える。黒い服を着た男女が母に頭を下げ、声をかけてゆく。
私には、この光景が夢に思えた。ただ、夢を見ているだけなのだと思った。
いや、本当は、夢だと思いたかっただけかもしれない。

父が体調を崩したのは、昨年の春。出張先の釧路から私に電話を寄越し、具合が悪いので汽車で帰るから、駅まで迎えに来て欲しいと言った。
電話の声は、いつもの様子とさして変わらないように思えたので、風邪でもひいたか、お腹をこわしたのだろうかと、暢気に考えていた。けれど、職人気質の父が出張先の現場を中途にし、家に帰ると言うからには、相当体が辛かったのかもしれない。
ちょうど、その日はクリスマス・イヴで、母を食事に呼んでいた。
「父さんも一緒に来て ご飯食べよう」そう言って電話を切った。

「とにかく、何も腹に入らないんだ」
父は、自分の状態をそんな風に説明した。出張先の宿舎で出された食事も、ここ一週間ほど手をつけられなかったと言う。
翌日、母と一緒に近所の内科医院に行った父は「胃に出来物があります。その性質を調べてもらいましょう」と言われ、総合病院の予約をしてもらった。
ところが、一月六日の検査予約を父は変更してしまった。病院に電話をし、一週間、予約を延ばした。そして五日から母と私の子供二人を連れ、三泊四日の温泉旅行に行くと言い出した。
体調が悪いのに・・・と訝る私に「どうしても行くんだって。子供達の支度しておいて」と母が言う。
「ホントに頑固だねぇ、父さんは」
呆れながら私が言うと母は「ああいうのは偏屈って言うのよ」と笑いながら答えた。

旅行から戻った父は、自分で変更した検査予約日に病院へ行った。検査だけで帰れると思っていた父は、その場で入院が決まり、狐につままれたようだった。
夕方、荷物を持って母と病院へ行くと、同質の患者と談笑している父がいた。病院指定の病衣がなんだか似合わない。
私が「一応、病人らしく見えるよ」と軽口を叩くと、父は苦笑した。
翌日から父は検査漬けだった。仕事帰りに父を見舞う母の、電話報告が毎晩続いた。
「検査があるから食べられなくて点滴ばかりで・・・今日は胃カメラだったみたい」「結果が出揃うまで全然わからないって」「血液検査で全部終了って言われたの」
仕事が忙しく、思うように父の元へ行けない私には、母の電話は貴重な情報源であったが、その反面、自分の目で父の様子を確かめられないもどかしさも味わっていた。

入院から十日後、担当医師による父の病状説明があった。母と私、二人の弟を前に、意志はレントゲン写真を出して話し始めた。
医師は、父の胃の出来物は癌で、今月末に手術予定であること、転移がなければ数年の生存が可能であることなどを、少々まわりくどく説明した。父は、自分のレントゲン写真を食い入るように見ている。
やがて、骨の全身写真に目を留めた。
「骨にある、この黒い点はなんですか?」
父が聞いた。私と弟たちも、つられて写真を見た。腰の部分を中心に不気味な黒い点があり、手足の骨にも広がっている。
「これは骨にできた癌です」
どうやら、父の病気は考えていたものより深刻らしい。説明は続く。手術で癌を取り、抗癌剤を投与して再発を防ぐという。父は姿勢を正し、黙って話を聞いていた。

説明が終わり、私たち家族は父の病室へ戻った。癌の宣告をされたというのに、父は終始明るかった。
「転移してなければいいってことさ。俺は絶対、転移してないと思うんだ」
健康には自信のある人だけに、転移への不安も骨の癌も、楽観視しているように見えた。だが、もしかしたら、余りにも突然すぎて実感がなかっただけかもしれない。
母が、翌日に寄ることを告げ、私達は病室を出た。エレベーターを待っていると、一人の看護師が私達を呼び止める。
「お帰りのところ申し訳ありませんが先生がお呼びです。詰所に来てください」
嫌な予感がした。
父にはいえないことを、これから私達は聞くのだ。いい話であるはずがない。恐る恐る詰所に入る。お国先ほどの医師がいる。消毒薬の臭いがわけもなく鼻をつくようだ。
所在なさげな私たちに彼は椅子を勧めた。
「実は大原さんの病状について、ご本人の前では話せないことがあります。残念ですが胃癌は転移している可能性大です。気休め程度の手術しかできそうにありません。また、骨の癌を取り除くことは不可能です。余命半年と考えていただけますか?」
医師は、先程の説明とはうって変わって、ハキハキと話す。私は、医師が突然なにを言い出すのかと呆気にとられ「どうしてですか」と間抜けな質問をした。
「大原さんの癌は、主病巣が胃ではなく骨なのです。ここからリンパ腺に入り、内臓に転移したと考えられます。症状が最初に出たのが胃であったというだけなのです」
 「・・・と、いうことは?」
「癌細胞は体中に存在しています。骨の癌は痛みを止めることしかできません。本人への告知の判断は、皆さんにお任せします」
「助からないということですか?」
弟が確認する。医師が静かに俯く。それは肯定であった。
先月まで板金職人として元気に働いていた父。昨年、三人目の孫が生まれ、喜んでいた父。来年迎える還暦を楽しみにしていた父。その父があと半年でこの世から消えてしまう。信じたくなかった。
さらに続く医師の説明は残酷であった。父の脊髄に深く根付いた癌は、やがて父を歩行不能にする。骨そのものも脆くなる。寝返りを打ったり咳をしただけで骨折するようになる。
そして激痛を伴い、最終的にはモルヒネなどの強い薬を使うより手段はなく、やがては死に至る。
医師の丁寧な説明で、素人の私でも医学的な理論はわかる。だが、何故それが父なのだろう。どうして父だけが、こんな病魔にとり憑かれてしまったのだろう。何故、どうしてと繰り返すうちに訳のわからない感情がこみ上げ、私は号泣してしまった。
ここが詰所であることも、数人の看護師が仕事中であることも、どうでもよかった。
私があんまり激しく泣いてしまったからか、医師は告知しないことを確認した後「抗癌剤が劇的に効く人もいます。あきらめないでください」と、妙に簡潔な言い方をした。

眠れない日が続いた。本を読んで眠気を誘おうとしても、活字が目をはねのける。仕方なく起き出し、明け方までビデオを見たが、やはり画面を目が追うだけで、内容は頭に入らない。ぼんやりと考え事ばかりしていた。
考えて考えて、行き着く場所は同じだった。
父の病気は、私が原因だと・・・。


続きは近日アップする予定です(・∀・)よろしく♪
 徒然なるまま
2007年04月03日 (火) | 編集 |
4月1日付の地元新聞紙に先日、公募で入選した
私の小説が掲載されました。
沢山の方々からご感想のメールをいただき、
感謝(人-)謝謝(-人)謝謝です。

その中で・・・。
時々、このブログにコメントをくださる
kabamaru改め萬造さまより
携帯の方に丁寧な感想メールをいただきました。
是非、作品のアップを・・・との要望を再度・・・。
・・・ということで、予定していたUKロックのブログは
また、いずれ。
急遽、今回の入選作をアップいたします。
興味のある方は読んでやってください。

ところで、777のキリ番、どなただったのかしら?